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2011/06/04

ぽーと会 平和セミナーの講師 テニー博士のこと (1)

ミッドウエー博物館の横にある銅像です。

8月のぽーとジュニアのプログラムは、平和を考えるセミナーです。


講師をしてくださるのは、現在90歳になるレスター テニー博士です。


テニー博士は、第二次世界大戦中、フィリピンで日本軍の捕虜になりました。 その後、日本に連行され、炭鉱で強制労働させられました。

日本人でそのことを知っている人が少ないのですが、それは、それはひどい虐待が行われていました。

加害者側 (日本人)は何も知らずに、被害者 (アメリカ人)は歴史の教科書での詳しく学び、孫や子の代まで語り継がれている事実があります。

テニー博士は、過去自分が受けたことへの憎しみ、苦しみ、を乗り越え、赦し、友情、希望につなげていくことを私たちに教えてくださいます。

戦争体験者が多くがお亡くなりになり、生き残った方もご高齢になり、健康状態がよくない中で、博士が日本人の子供たちと語りたいと時間を作ってくださって、本当に感謝です。

8月にお会いできるのが楽しみです。


朝日新聞2010年11月5日朝刊 


故田坂徹氏と澄子夫人



  
 田坂氏の墓前で        伊吹由歌子さん、澄子夫人、テニー夫妻



類まれな絆 訪日米元捕虜たちの傷を癒す

(2010年9月11日) カリフォルニア州カールスバド. (AP) –

レスター・テニーは電話を受けたとき呆然とした。日本の新駐米大使が彼に会うというのだ。それまで何年となく、第2次大戦中の捕虜として自分が目撃し、耐え忍んだ残虐な行為について日本政府高官の謝罪を求めてきたのであった。

正義と和解を追い求める彼の手紙も電話も、決まって無視されてきた。

そして、2008年退役軍人の日、あの戦争から63年以上たって、テニーさんがアーリントン国営墓地を訪れた日、ついに大使から指示がきた。大使館は休日閉館のため藤崎一郎氏は元捕虜を自宅に招いたのである。二人はそれぞれの妻を同伴しお茶を飲んだ。どんなことがして差し上げられるだろう、と大使は聞いた。

思いがけない友好関係樹立は友情となり、今度の日曜日、テニーを含めた米元捕虜たちの一行が出かける日本への旅につながった。1995年いらい、日本は他国の元捕虜たちを招待してきたけれど、アメリカの捕虜たちとの和解を目指す今回は、この国が後援する初の旅行である。

日本で国会議員たち、また外務省の役人たちと会うとき、戦時中に恐怖からしたのとは違い、はじめて日本人にたいし敬意と礼のこころでお辞儀をしようと思う、とテニーは語る。

「私たちがやっと第一級の市民として扱われる、ということになります」と話すテニーは、サン・ディエゴに近く、ゲートを設けた引退者用共同住宅に住み、自宅の小さな日本庭園では噴水が水音をたてる。

90歳でなお、テニーは樽のような胸板からなりひびくような声音、鋭い機知に富む話上手である。

63歳の藤崎は戦後2年して生まれた。彼は現職にはわずか5ヶ月であったが、テニーが日本人高官たちから何の応答も受けたことがないのを知っていた。

「私の手元に彼の願いが届けられて、私たちは思ったのです、『よし、もしこの紳士が求めるならお会いしようじゃないか、と。』 AP通信とのあるインタビューで大使はこう言った。

その日の会話は1942年4月9日、米合衆国がフィリピンのバターン半島で4ヶ月にわたる戦闘に終止符を打ち降伏したその時いらい、テニーの内奥に湧き出ていたものだった。

悪名高いバターン死の行進で何人の捕虜の斬首をみたか、何人が銃剣で刺殺されたり銃殺されるのを見たか、テニーは覚えていない。何十人、あるいは100人を超えるかもしれない。その後の数週間でさらに多数の者たちが死んだ。

マラリアの発作に襲われたひとりの仲間を、弱って立っていられないという理由で、生き埋めにするよう、ひとりの日本軍監視員がふたりのアメリカ人に命令するのを見たと彼は大使に話した。彼らが拒否すると監視員はそのひとりを射殺した。隊列から引きずり出された次のアメリカ人たちが両方の兵士を生き埋めにした。ひとりは死んでおり、ひとりは生きていて悲鳴をあげていた。

「その場にいながら、友達が殺されるのを、ただ注視するだけで何ひとつできない。ひどい気持ちですよ。」後日のあるインタビューのとき、高ぶる感情に声を震わせてテニーは言った。「いつまでもこころをさいなみます。」

3年間、疾病により人々が群れをなして死ぬのをみながら、テニーは日本のある炭坑で12時間労働の日々を送った。一日ただ小さな茶碗に3杯の飯しか食べられなかった。麻酔薬がないまま、ステーキ用のナイフを用い人間の四肢を切断していたアメリカ人衛兵のことを彼は覚えている。

その午後、テニーは大使にむかい三つの望みがあると告げた:日本政府からの謝罪、捕虜たちを奴隷として使役した日本企業からの謝罪、そして日本政府が支払いをして米捕虜たちが日本へ旅行すること。

宵闇がおりてから、藤崎はドアを開けてテニー夫妻をタクシーに乗せた。大使夫人はふたりにさよならのキスをした。

その後数ヶ月、ふたりが手紙のやりとりをするうちに、2009年5月、バターン・コレヒドール防衛米兵の会が最後の年次会をするとき、短い話をしてくれるよう、テニーは大使に圧力をかけ始めた。この会は創立63年後にして、生存する会員があまりに少数となり解散しようとしていた。

藤崎は最後の日まで迷った。良いニュースを元捕虜たちに伝えるようとの主張をテニーがやめ、来てくれるだけで十分だと言ってのち初めて行くことにしたのだと彼は語った。

大使はサン・アントニオへの飛行中に、発言すべき言葉を書いた。1995年日本の首相村山富市首相が、さきの大戦中に日本軍が原因となり起こった広範な損害を認めた1995年の演説のコピーを彼は携えていた。藤崎は村山演説からじかに引用してもよいと考えたのである、そこに捕虜への言及はないのだったが。

「あなたが入っていくのはトラの巣ですよ。」演説台にふたりで近づきながら、テニーは大使に言った。

それに続いた演説は前例のないものだった。

第2次大戦にまつわる日本の後悔はバターンで捕らわれた者たちを含む、日本の捕虜扱いに及ぶ、と藤崎は言った。これは日本政府高官が明白に捕虜へ謝罪をした最初で、またいまだに唯一の折である。

大使はシアトルで中学時代の1年間を過ごし、ブラウン大とスタンフォード大に通ったひとだが、そのときの発言について東京の政府関係者のだれにも相談しなかったと言う。

「この機会を逃してはならないと思いました」と彼は語った。

500人の聴衆のうち捕虜は70人であとは子・孫の世代だったが、約半数が大使にスタンディング・オベーションを送り、他方、その他は野次るか無言のままだった、とテニーは述べる。

ホテルのテニーの部屋での昼食が終わると、捕虜たちの日本への旅を手配してみようと藤崎はテニーに言った。外務省高官たちは三月、日本政府が訪問のため千八百万円の予算措置をしたことについては藤崎の助力があったと語る。

日本はこれまで英国、オーストラリア、オランダの捕虜たちを招待してきた。アメリカ人を招くのになぜこんな手間取ったかまるでわからない、と藤崎は言う。広島・長崎への原爆投下にたいする憤りもこの遅れの一因ではないかとテニーは推測する。

テニーは戦後、サン・ディエゴ州立大とアリゾナ州立大で会計学と金融関連の学問を教えたが、14人の代表団メンバーを選ぶため米国務省と共同で働いた。彼が呼びかけた最初の10人は長旅に適合できなかったので、彼はくじをつくった。

日曜から始まり八日間におよぶ旅の最終人員数は、6名の捕虜とその親族が6名、そして亡くなった捕虜たちの娘が2名である。

東京で短い滞在ののち、捕虜たちは各自、自らひとつの都市を選んで旅をする。自分が労働した工場、ドック、鉱山を訪ねるひとたちもいる。

テニーと50年連れ添うその妻とは、昔の炭坑にも、会ってくれという彼の願いを無視してきた元雇用者のところへも行かない。AP記者は炭坑操業者である元三井炭坑株式会社、現在の日本コークス工業株式会社にコメントを求めたが、返答はなかった。

藤崎は旅行に同行はしない。日本の諸会社に参画を強制はできないと彼は言う。テニーの三つの願いのうち彼が満たすことのできなかった唯一の望みである。

テニー夫妻がかわりに訪ねるのは、松山にあるひとりの日本人男性の墓で、彼は1968年サン・ディエゴで交換学生として夫妻の家に滞在し、親しい友となった。夫妻はこの男性の結婚式で1988年日本へ行き、新婚ほやほやのふたりのハネムーンに同行したのである。

テニーとの最初の会見を思い出すよう求められて藤崎が最初に触れたのは、この元捕虜が、そのとき、癌で死にかけていた日本人・田坂 徹との友情について話した様子だった。

「家内は非常に感動して涙を浮かべていました」と大使は言った。



藤崎大使夫妻に田坂氏との友情を語るテニー氏

ぼくの親友をとおして日本の人々を憎んでいない自分に気づいたとテニーはいう。しかし、いまだに彼は日本政府には憤る。

日本はアメリカ人捕虜たちを彼らの命の限り犬同様に扱ってやる、と叫んだある収容所将校のことを、元捕虜は想う。

「何年にもわたり、会ってほしいと願み続け、また違った扱いを求めつづけて、何ひとつ得るところなし。これでは、日本人はいまでも同じ考えを持っているんだという気持ちになってしまう、」とテニーは語る。「私たちが犬畜生にも劣る、卑怯者だと、ね。」

来週の訪問は、しかし、長い道のりの末、ついに変化がもたらされたことを意味する。

「来週、あそこへ行くことが、私が頭を高くあげてこれからも歩み続けるしるしになる。」   
           

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